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- 2024/03/29(金) 07:38:00|
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(以下 JPFA PLAYER'S HISTORY 関根永悟編より)
― 小学生時代(川越小学校)
幼稚園の友だちのお父さんがコーチだったので、幼稚園の頃からボールを蹴り始めました。小学校では少年団に入ったのですが、人数が少なかったので、試合など本格的な練習をはじめたのは4年生になってからでした。川越小学校はあまり強いチームではありませんでした。今、愛媛に千島徹がいますが、同じ川越市の出身で同学年なんですね。徹はひまわりっていう埼玉じゃ有名なチームのエリートだったんですよ。たまにひまわりと練習試合をすると、ひまわりは徹も含めて主力はベンチというくらい実力差がありました。(笑)
― 中学生時代(ロクFC)
中学校では友だちから一緒に行かないかって誘われて、部活に入らずにクラブチームに入ったんです。ロクFCってなかなか有名なチームだったんですね。結局、試合にはあまり絡めませんでしたが、練習にはほとんど毎日行っていました。トップチームには入れるんですけど、試合にはなかなか出られなくて。でも、サッカーが好きだったから、一生懸命、真面目にやっていました。学校が終わると、母親が迎えに来てくれて、車の中で服を着替えて、駅まで乗せてもらって、電車に乗って練習に行く、という毎日でした。監督は私生活からしっかりと指導をする監督でした。ジャージのファスナーが開いていると怒られるし、合宿とかで食事の仕方にも注意を受けました。そこでサッカーも教わったし、礼儀も教わり、影響をかなり受けました。
― 高校への進学
もともと推薦がなくても、大宮東高校に自力で行こうと思っていたんです。ただ、体育科だったらロクFCから推薦で5人くらい行けたんですね。そこに、たまたま1人が別の高校に行って枠が空いていたので、推薦で入ることが出来ました。一応、運動と面接があったんです。体育館で反復横跳びなどの基礎運動をしたんですが、すごく緊張したんですね。その上に、体育館がすごく寒くて、緊張しているのか寒いのかわからないけど、すごく震えていた記憶があります。
― 高校生時代(大宮東高校)
1年生の時、監督は走ることを重視していて、とにかく走って走って走りまくっていました。合宿はすごかったですよ。朝7時から300mインターバルを10本走って、それから朝食です。食事後、普通の練習をして、午前の練習後にまた300mインターバルを10本。昼食をとって休んでから午後練習があって、また練習後に300mインターバルを10本です。(笑)それを5泊6日くらい行います。厳しくて、精神面ではかなり鍛えられました。高校2年生の時に和泉逸平さんというコーチが来てくれて、それで走るサッカーではなくて、違ったサッカーをするようになりました。高校1年生の頃は試合には絡んでいませんでしたが、2年生からディフェンダーに転向させられて、そこから試合に出られるようになりました。高校在学中に、全国大会には1度も出られませんでしたけど、国体は3年の最後の方に選ばれて、本大会には出ることができました。1回戦負けでしたけど。
大宮東高校の1年上の先輩が二人、セレクションを受けてホンダルミノッソ狭山に入っていたんです。そのことを知っていたので、僕も受けてみようかな、と思って受けたところ、かなり早い時期だったんですけど、合格したんですね。それで、迷うことなくホンダルミノッソ狭山に入ることを決めました。
― ホンダルミノッソ狭山時代
工場での仕事をしながらだったので、すごく厳しかった5年間でした。最初の3年間は、ドリルみたいなねじ回しを持って、バッテリーを取り付けていました。1台の作業は約1分ちょっと、1日500台分の取り付けをしていました。その後、2年間、左ドアをつけていました。練習後のライン作業は、慣れてくるとすごく眠くなってくるんですよ。眠くて動作が遅くなってしまうと、ラインが流されていってしまって、ねじ回しのエアホースが限界まで張ってしまうんです。そこで「おーい、止めてくれー!」ってラインを止めてもらって、慌ててつけて持ち場に戻るんです。(笑)でも、これを何秒か止めるだけで、かなり怒られちゃうんですよね。仕事は早番と遅番があって、1週間おきにシフトが変わります。早番は朝6時半から午後3時10分くらいまで、遅番は3時15分くらいから11時半まででした。サッカーの練習は、早番だと夕方6時から1時間くらいやって、遅番の時は12時くらいから1時間くらいだったんです。サッカー部のシフトはみんな一緒だったので、練習はある程度出来るのですが、9時から5時の通常勤務の人もいたので、全員でというわけではありませんでした。中腰で行う業務が多かったので、腰を悪くしてしまって、サッカーをやれない時期も少しありました。でも、今、考えるといい思い出です。でも、もう一度その工場勤務をするのは厳しいなって思います。
ホンダルミノッソ狭山は関東リーグでも1位、2位くらいで強くて、僕が所属していた頃はJFLを目指していました。それでも、JFL入りを決める決勝大会に出ると、前評判が良くてもなかなか勝ちあがれないでいました。今は、JFL入りは目指していないようです。
2004年シーズンの開始後、その年にJFLに上がれなかったら、上を目指しているチームに行こうかなって考えていたんです。もっと上を目指したかったことと、仕事との両立が厳しかったことが重なって。本当は、入社して2年目の時点で他に移ろうかと思ったんです。その時は周囲の人たちに猛烈に反対されたので、思いとどまったところ、そのシーズンに仕事で腰を悪くしてしまったという経緯もありました。そして意を決して取り組んでいた5年目のシーズンに昇格できなかったので、他に移ろうという気持ちを強く持つようになったんです。そこで相談したところ、愛媛のスタッフの方に知り合いがいる人がいて、セレクションがあることを教えてもらって、50人くらい参加したセレクションを受けに行きました。個人的には状態が良くて、練習試合でも2点取れたんですね。その時に、目立った方がいいんじゃないかと思って5分刈りにして行ったんですけど、怖く見えたのか、マークが甘かったのかもしれません。(笑)でも、おかげで愛媛に入ることができました。
― プロになれた一番のポイントは?
サッカーやっている以上、プロ選手になりたかったので、そんな夢をあきらめなかったことだと思います。けっこう反対されたんですよ。特に、よく行った定食屋さんがとってもいい方たちで、本気で心配してくれて。奥さんなんて涙を流してくれたんです。でも、そんな方たちに支えてもらいながらやってきたのが、良かったんじゃないかなって思います。